■ パリ音楽院と名教授達。   藤田真頼   第3回コラムページへ
パリ音楽院の教授たちは歴代そうそうたるメンバーである。
彼等はまた、パリオペラ座と切っても切れない関係であり、
フルーティストとしてのみならず、
のちに指揮者や音樂監督として活躍した人物も少なくない。
プレイヤーとしてはもとより、後継者を育てる責任感がこの歴史を作ってゆく。
前回はフイリップ・ゴーベールについて彼の人生を紹介したが、
今回はゴーベールの恩師ポール・タファネルと
パリ音楽院のことについて話してみたい。
第2回 ポール・タファネル(1844 Bordeaux〜1908 PARIS )
◇精力的な音楽活動
 タファネルは1844年9月16日ボルドー生まれ。彼はパリに出てくる前、既にボルドーでかなり高度な音楽の教育を受け、フルートの技術も体得していた。当時のフランスでは、『聖歌隊』の教育が地方でも盛んで、音楽の基礎能力であるソルフェージュを幼いころから徹底的に勉強させる伝統があった。パリ音楽院ではフルートをルイ・ドリュス(Louis Dorus)に師事。ドリュスはオペラ座のフルーティストで、彼の書いた教則本「Methode de flute(メトード・ド・フルート)」はフランス国内のあらゆるコンセルヴァトワール(音楽院)で長年用いられていた。
 ドリュス先生の下、最も優秀な生徒だったタファネルは、1860年、16歳でプリミエプリ(l等賞)を得ている。その後、ハーモニー、対位法、フーガのクラスでもプリミエプリを獲得。そして1864年、20歳でパリオペラ座管弦楽団に入団する。先生のドリュスは、1866年までオペラ座のフルーティストを務めていたので師弟でありながら同僚でもあった(同時期、ドンジョンもオペラ座に在籍)。
 1867年にはパリ音楽院管弦楽団に入団。1879年、ソシエテ・デ・キンテット・プー・アンストルモン・ア・ヴァン創立(Socie dedes Quintltes pour Instrements a Vent) 「管楽室内楽協会」と訳されるが木管五重奏で用いられる楽器を中心にしたグループ。1880年、36歳でパリオペラ座管弦楽団の指揮者。1892年、パリ音楽院管弦楽団の指揮者に。そして1893年、48歳でパリ音楽院のフルート科の教授に任命される(この時同時にまだ14歳のゴーベールがパリ音楽院に入学している)。
 その後ゴーペールをはじめ、ルイ・フルーリー(コンセルヴァトワール音楽百科事典執筆者)、マルセル・モイーズ(ゴーベールの後パリ音楽院教授)、ジョルジュ・ハーレール(コロンヌ管、パリオペラ座)など、数々の優秀なフルーティストを育てている。
◇フルートを愛しオペラを愛した作曲家
 作曲面ではオペラのテーマを題材にしたアレンジ物、トマの歌劇を編曲した「ミニヨンのグランドファンタジー」、ロッシーニの歌劇「魔弾の射手幻想曲」、ドリーブの歌劇「ニヴ工ルのジャン・グランドファンタジー」など。どれも高度なテクニック(ウィルティオージテ)を要求される名曲である。その他、貴重なレパートリー『木管五重奏』。そし1907年のパリ音楽院の卒業試験曲「アンダンテバストラールとスケルッツ工ティーノ」(ゴーベールに捧げられた曲)が知られている。フランスでは入学試験も卒業試験も試験は何でも「コンクール」と言い、日本で言うコンクールは「コンクールナショナル」とか「コンクールインターナショナル」となる。「コンクール用作品」という名目になっているものは、大抵パリ音楽院の試験のために書かれたものと考えて良いだろう。

有名なフォーレの『ファンタジー』はコンクール用作品で、ポール・タフアネルに捧げられている。作曲者本人が卒業試験の審査員で「自分が書いた曲をフルートでこんなに劇的に演奏してもらえるとは本当に思ってもみなかった」と語ったという逸話が残っている。

◇深い追求心と執筆活動
 フルーティストとしてのみならず、人間的にも高い教養と知識を有していたタフアネルは、死の直前まで2つの完結させなければならない大きな夢(仕事)を抱えていた。ひとつは『コンセルヴァトワール音楽百科事典』の執筆。もうひとつは『フルートの教貝り本』の完成。フルートのテクニックの追求をし尽くした彼は、実学的なアプローチでも極限まで努力することを怠らなかった。
”L′ARTDELA FLUTE”(ラール・ド・ラ・フルート)フルートの芸術である。『タフアネルとゴーベール完全版』をご覧になったことがあるだろうか? いわゆる音階の『日課大練習』はパート4であって、実は、それ以外の部分が非常に重要なのである。
 全227ページに渡る大教則本である。それぞれ事細かに説明が書いてあり、いかにどうやって教育すべきか考え尽くされたものなのだ。初心者から上級者まで、すべての技術が網羅されていて、まさにフルートのための百科事典と言ってもおかしくない。そして注意書きにはこんなことも書いてある。「確実に言えることは、どんな教則本でも生きた素晴らしい先生から学ぶことには代えられない。完聖な教則本でもそれだけでは不十分である……。(後略)」
 しかしタフアネルは、志半ば、1908年11月21日、る4歳でこの世を去ってしまう。彼の残した膨大なスケッチから、師弟関係を超え、まるで親子のように親密だった二人が、師の遺志を継ぐ。ルイ・フルーリーが「コンセルヴァトワール音楽百科事典」を、コーベールが教則本「タフアネルとゴーベール」を完成させ、遂に1923年、パリで出版されることになったのである。 ロベール・エリシェ著の『La Flute』ではタフアネルの紹介をこう結んでいる。名曲で、捧げた人々への深い愛情が感じられる。きっとゴーベール自身も周りの友人達に愛され好かれていた事だろう。
「フルーティストとして全身全霊をその仕事に傾け、教育者として、指揮者として、作曲家として、音楽監督として巨匠タフアネル先生は非常に充実した人生を過ごされた」
 これほど尊敬されているフルーティストはいないのではないか。誰でもがフレンチスクールの基礎の確立者として認め、何より生徒が自分より成長して欲しいと常に願っていたタフアネル自身、生徒たちを敬愛し、たくさんの愛情を注げたことだろう。こうして次々と優秀な後継者が成長していき伝統は続く。
 次回はタフアネルの先輩で、もうひとつの大切な教則本の執筆者、アルテスのことを話してみたい。
 
資料 Edward Blakemen
ザ・フルート68号掲載
ポール・タファネル
ゴーベルと共にタファネルの遺志を継いだルイ・フルーリー
教則本『タファネルとゴーベール完全版』
パート1に入る前には、楽器の持ち方や姿勢など、入り口からアプローチされている。(残念ながら日本語訳は未出版)
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