■ パリ音楽院と名教授達。    藤田真頼   Columnページ4へ
フルートを吹く人で「アルテス」を知らない人はいないだろう。
ピアノの教則本に「バイエル」があるように、
アルテスはフルート入門のためのバイブルである。
ピアノのバイエル(フエルディナント・バイエル[1803〜1863]ドイツ)は、
ピアニストであり作曲家、そして優れた教育者であった。アルテスも同様である。
今ではその作品も忘れ去られ教則本だけが残された状態になっている。
そして、今から100年以上前に出来た教則本を現在もなお、
遠い日本の国で、使い続けているわけである。
時代の境を生きた、フルート界のバイエル「アンリ・アルテス」とは、
一体どんな人物であったのだろう。
第3回 ジョセフ=アンリ・アルテス (1828 ROUEN〜1895 PARIS? )
◇師匠トゥルーと新しい楽器

 アルテスの生まれた街ROUEN(ルーアン)はパリの北西。パリより下流のセ一ヌ川沿いにあたり、昔はノルマンディー公国の首都だった。 1431年にジャンヌ・ダルクが火あぶりの刑に処せられたことが有名で、古くから栄えた落ち着きのある小都市である。

 アルテスはこの街でフルートを勉強し、なんと13歳でパリ音楽院に入学。先生はトゥルー。1842年15歳でプリミエプリを得ている。今ではパリからルーアンまでは電車で2時間もかからないが、その当時10代前半の少年にとっては大旅行であったことだろう。

 超人的技術の持ち主で(ヴイルティオーゾ)しばしばコンサートで大喝采を得た。 1848年から1872年まで、パリオペラ座フルーティストを勤める。 1868年パリ音楽院フルート科教授に就任。1893年まで25年間教鞭をとる。 1895年パリに没すという説と、1899年ブロワの近くサン=デイエに没すとの説とある。

 教則本全3巻は1880年に完成された。 他に「ファンタジー」「弦楽器との4重奏」「ピアノまたはオーケストラ伴奏によるソロ」など多数の曲を書いている。 ここでアルテスの師匠トゥルーの紹介もしないわけにはいかない。


 トゥルー(Jean=Louis TULOU)は1785年パリ生まれ。 父親はパリ音楽院のバスーンの先生であり、オペラ座のバスーン奏者である。  ヴンダリッヒに師事し15歳でパリ音楽院のプリミエプリを得ている。 1813年パリオペラ座のフルーティストに就任。 1829年よりパリ音楽院フルート科教授。 彼の人生のほとんどは木管4キイのフルートを使っていた。 何度かロンドンヘ演奏旅行に出かけるが、良い結果を得られず失意でパリに戻る。  1828年ノノン(JaquesNonon)の工房でフルート製作にかかわり始め、1831年からは彼の作製したフルートがパリ音楽院で使い始められるようになる。  これらのフルートの幾つかは、今でもパリ音楽院の楽器博物館で見ることが出来る。  その後30年間教授を勤め1859年退職。 1865年ナントにて没す。80歳。今でもフルーティストにとって大切なレパートリーであるグランドソロを始めコンチェルト、デュエツトなど数多くの作品を残している。


 なお,ドメルスマン(1833〜1866享年33歳)もトゥルーの弟子の一人であった。 トゥルーの悲劇は、その後パリ音楽院の使用楽器を同時代のフルーティストであり作曲家、楽器製作者のドイツ人、ベーム(TheobaldBOHM1794〜1881ミュンヘン)発案の物に取って代わられたことである。  1947年のベーム作製、銀製円筒管フルートは1855年のパリ万国博覧会でグラン・プリを獲得する。その後パリの楽器メーカー「ゴッドフロワ」がベームシステムのフルート製作の特許を得る。  トゥルーの後にパリ音楽院の教授になったドリュス(Louis DORUS1812〜1896)が1860年、この楽器を正式にパリ音楽院の使用楽器に認める。 フルートのフレンチスクールはここからはじまるのだ。 こうしてパリのフルート界は少しずつ木製のフルートから銀製のフルートに代わってゆくのである。  トゥルーは最後までベームのフルートに対し納得しなかった。 トランペットのような音のするフルートより、自分が作った繊細なフルートで十分足りる‥‥‥と。 現代のフルートでも難しいあのグランドソロを、4キイのフルートで吹けていたと考えてみると、トゥルーがそれだけ超絶技巧の持ち主で、巧かったということになるのだが。

◇美しい旋律の教則本


  そしてその新しいシステムのフルートのために、どうしても新しい教則本を考案しなければならなくなり、誕生したのが「アルテスフルート教本全3巻」というわけである。 全くの初心者にもわかるよう、それこそドレミの読み方“ソルフェージュ’’から始められていて、楽器の扱い方、持ち方、音の出し方‥と続く。しかし2巻の終わりまで進めば熟達したテクニックが身についているという、実に丁寧で素晴らしい教本である。 時代も変わり、改訂版もたくさん出て解釈は色々あるけれど、これらの曲の美しさは変わらない。 フルーティストなら誰でも耳に残っている旋律が、一生懸命練習した思い出があるはず。この中にアルテス自身のエキスが詰まっているのである。 今、アルテスの曲を演奏会で聴くことは無い。楽譜も手に入らない。忘れ去られてしまった。 しかし1893年までパリ音楽院の卒業試験の曲はほとんどトゥルーとアルテスの曲であった。教則本を通して、世界中のフルーティストにアルテスの精神が受け継がれている。

 パリオペラ座時代の関係を考えてみよう。 おそらく1860年以降の3人のフルーティストはベーム式の銀製のフルートを使用していたと思われる。 上にドガ作の「オペラ座の音楽師達」の絵がある。実物を見ると(実物は56′5×46.2パリオルセ一美術館)銀製でキィが付いているように見える。 この絵は、1870年の作品でまだ現在のオペラ座「ガルニ工」に移る前の劇場、オペラ座「サル・ペルティ工」である。このころフランスは暗黒の時代。 プロイセン戦争敗戦、ドイツ軍パリ入城、パリコミューン、アルザス、ロレーヌ地方の割譲などで政治的に不安定。 有名なドーデの「最後の授業」の時代であった。音楽活動も鈍り、1873年にようやくオペラ座の活動を再開したとたんに火災で本拠地「サル・ペルティエ」を焼失してしまう。1875年のオペラ座「ガルニエ」が出来るまでの2年間、アルテスはどこでフルート吹いていたのだろう。

 そんな時に作曲されたのがビゼーの「カルメン」である。1875年、格の落ちるオペラコミック座初演。庶民の音楽である。 初演は酷評だったがその後客足は途絶えなかった。 この、今や最も有名なオペラの要所要所で大活躍するのがフルートで、「間奏曲」のメロディはフルートを知らない人でも知っている。 そしてビゼーはアルテスやタファネルのフルートを聴いていたはずで、このフルーティストたちの舌があの甘美なメロディを湧き出させたと言っても間違いはないと思う。
次回はパリ音楽院初代フルート科教授「ドゥヴイエンヌ」について書いてみる。
◇ベームシステムが発表される前のフルート:キィの少ない楽器が主流だった。
◇1847年にベームにより発表された、銀製円筒管フルート
資料 Edward Blakemen
ザ・フルート69号掲載
ジョセフ=アンリ・アルテス
アルテスの恩師:J−Lトゥールー
現在のフルートの発案者:テオバルト・ベーム
現在のオペラ座移転前の「サル・ペルティエ」
 
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