■ パリ音楽院と名教授達。    藤田真頼   TOPページ

これまで、時代をさかのぼるようにパリ音楽院の名教授たちを調べてきた。
ゴーベール、タファネル、アル手スリマー、トゥルー・・・。
フランス革命真っ只中、そのパリ音楽院の初代フルート科の教授は
フランソワ・ドヴィエンヌであった。
あの激しく、悲しい、フルート協奏曲第7番を
聴いたり練習した事はあるだろうか。
その時代のフルートは今のフルートとまったく違う。
木の管に穴が空いている程度のもので、
あの難曲を本当に演奏できたのだろうか。宮廷の楽師になるか、
教会のオルガニストになるしか、音楽を続けてゆく道が無かった時代・・・
今回は「フランスのモーツアルト」と呼ばれている、ドヴィエンヌとは
一体どんな人物であったのだろう。

第4回 
フランソワ=ドヴィエンヌ (1759 JOINVILL〜1803 CHARENTON)

◇天才少年の謎の生い立ち


 フランソワ・ドヴイ工ンヌは、1759年1月31日 フランス東部(オート=マルヌ県)ジョワンヴィルで生まれた。
ロレーヌ地方とシャンパーニユ地方の間である。彼の生涯における最初の10数年は謎である。
  家族のことも何も知られていない。しかし想像するに、最初に彼に音楽を指南したのは彼の兄であるようだ。そのころからすでに粗悪な楽器でかなり高度な作曲をしていた。
  10歳ほどの少年が何を創造していたのだろう。 そしてオート=マルヌ地方のスイス軍駐屯地の音楽家として雇用される。
雇われてすぐ軍楽隊の先輩たちにミサで演奏すべき曲を作曲した。軍楽隊の猛者たちのレベルに合わせ、10代の少年が曲を書いたとは、なんともほほえましい。
その後パリに上京する。

 1788年のrカランドリ工=ミュージックj(音楽のカレンダーとは違う意味を持つ)の資料で、音楽の教授としてパリに公表されている。
  パリではサントノーレ(Saint-Honore)界隈に住居を構える。 今では高級ブティック街だが、そのころは「ひなびた枯れ木ばかりのさびしい所」であった。評判の名フルーティストで、教師としての人気もあったが、バスーン奏者として貴族のオーケストラ(l’orchestre du theatre de Monsieur)で職を持つようになる。
  その関係から当時最高のピアニスト・フンメルやヴァイオリニスト・クロイッツ工ルなどと交流を持つ。

 そこで得た貴重な経験が彼の作曲家としての才能にその後多分に活かされる。1793年パリ音楽院の初代フルート科の教授に就任(179d年10月27日任命と言う説もある)。多忙な生活にもかかわらず、作曲と教則本の執筆も怠らなかった。


◇葛藤の作曲生活とフランス革命


 王族、貴族、僧侶は贅沢三昧。農民は困窮の生活。社会矛盾が激化し、多数の人々が現在の制度に不満を持ち、一挙にこれを破壊する。しかしそれが単なる一地区の一揆ではなく、革命として成功するためには、大衆のエネルギーを指導する思想がなくてはならない。
  フランス革命は、1789年7月14日の1日で起こつたわけでも終わったわけでもなく、その前後10年余り、様々な暗い影を落としている。
  モーツアルトは1756年生まれで、1791年死亡。ベートーヴェンが1770年生まれで1827年に死亡。ドヴイ工ンヌはその中間の作曲家であり、そしてまさにフランス革命当時、パリの真っ只中にいた。
  激しい葛藤の中ドヴイ工ンヌはひとりの庶民の女性と結婚し、5人の子どもを授かる。しかしまた、音楽を続けていくためには貴族とのかかわりを持たないわけにも行かない。1790年はなんという運命の時代だったのか。
 
その年ドラマチックなオペラ「LeMariage clandestin」(ル・マリアージュ クランデスタン)でドヴイエンヌは、作曲家としてデビューする。「非合法な、内密の、認めざる結婚」と言う意味である。
  その時代を象徴する、嵐のようなオーケストレーションで成功を収め、ファヴアール劇場(FAVRT)フエイドー劇場(FAYDEAU)などでたびたび上演される。
  また、1793年に作られた「Les Visitandines」(レ・ヴイスタンデイーヌ)(修道女)は鮮烈かつ衝動的なアイデアで、彼の名声を確実なものにし、演奏家たちからの、絶大な支持を受け、1809年から1815年までの間、一時上演禁止になったものの、その後再演が許され「Pensionnat des juenes demoisellesj(パンショナ・デ・ジュヌ・ドモワゼール)(女子寮)と改名され、19世紀半ばまで上演され続けた。また、革命時にも、啓蒙思想のプロパガンタ的オペラ「Le CongreS desRois」(ル・コンクレ・デ・ロウ)(王族会議)を作曲。その他に12のフルート協奏曲を始め、6つのトリオ、多数のソナタ、デュエット、協奏交響曲など、数々の作品が残されている。


 また、1795年(パリ音楽院の教授に就任した年)に出版された有名な「フルート演奏法」は今日の近代フルート奏法の礎となっている。 フルーティストとしての彼は、当時すでに流行していた4キイのものを使わず、1キイのフルートを使い続けたと言われている。信じがたいテクニックである。
 現在ドヴイ工ンヌの作品を耳にする機会はあまり無いが協奏曲の第7番は楽譜もCDも手に入りやすい。ご存じない方は是非この曲に触れて欲しい。オペラを除いて彼の作品にはタイトルが付いていない。もしこの曲に例えば「バスチーユ」とか「革命」とかタイトルが付いていれば、おそらくもっとドヴイ工ンヌの名声は上がっていただろう。世間が革命で動乱の時、孤独なドゥイエンヌは怒りとロマンチシズムを音楽にぶつけていた。一方また彼は聴衆に解りやすいように当時の趣味に合わせ、資産階級(petit-bourgois)を考え理性的に作品を改訂し、1799年に「Les Visitandines」を再演している。

◇悲劇の晩年

 
その公演以降の、ドヴイ工ンヌの消息は、ぶっつり切れる。4年後の1803年9月の新聞に、シヤラントン(Chrenton)(パリ郊外)の精神病院において彼の死を知らせる記事が載った。
  4ヶ月間隔離された後の死である。
  「9月6日。過労とフランス革命による様々な悲しみと辛い思いが、彼に脳障害を起こさせ、狂気の世界に導き、ここに死去」。フルートの教授としてパリ音楽院で働く一方、数々の演奏もこなし、その上毎日8時間作曲に没頭していたと言う。
  44歳の短すぎる一生であった。 当時のパリは憧れの都であったことには変わりないが、都市計画も未熟で道は狭く、浮浪者が溢れ、下水道などまだ完備されておらず、雨が降ると汚物が流れ、増えた人口をもてあましていた。不衛生極まりなかったことも彼の一生を短くした原因の一つだろう。
 その後ナポレオンが出現、自由の国フランスを導いてゆく。
  尊敬するナポレオンを讃える交響曲第3番をべ一トーヴ工ンが作曲。表紙の上部に「ボナパルト」下部に「ルイジ・ヴァン・ベートーヴェン」と書いてあったが、彼が皇帝になったことを聞き激怒し表紙を破り捨て「英雄交響曲」と書き込んだと言う有名なエピソードは1806年。
  フランスではフランス革命以降を、[元年(1789)、2年(1790)]と呼ぶことがある。
  今から丁度200年程前、音楽の世界も革命の時代だった。

 
次回は「マルセル・モイーズ」について書いてみる。
ザ・フルート掲載
参考文献
図説 世界の歴史7 革命の時代(著:J.Mロバーツ、日本版監修:見市雅俊)創元社
※1789年7月14日のパリ市民によるバスティーユ牢獄の襲撃や1973年1月21日ルイ16世の処刑など、革命の時代を図入りで読み知ることができる。
資料 Edward Blakemen
 
フランソワドヴィエンヌ
生徒を指導するドヴィエンヌ
 
 
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